結界病棟  第2話  『首くくり』



十日ほど前から誰かがささやく。

死ね死ね死ね死ね。

死んでしまえ。

そう、耳鳴りのように誰かがささやいてくる。

そのせいだろうか。

とある水曜の朝。

ミチルはなぜだか死にたくなった。

毎朝乗る、おなじ通勤電車。

その駅のホームで急に死にたくなったのだ。

すぐに会社に電話し、体調が悪いと告げて休暇をもらった。

それでも帰宅する気にはなれず、反対方向に進む電車に乗ってみようと思いついた。

シートには座らず、ドアの横に立ち外をながめた。

車窓に流れる風景は新鮮で、すこしだけ知らない世界に迷いこんだみたいだった。

そのとき、雑木林が目に入る。

秋をむかえ、赤く色づきはじめた木々。

東京にも、あんな場所があるんだ、と感じたとき。

あそこだ。

あの場所で死ななくちゃ。

直感的にそうおもって、つぎの駅で降りた。

構内を出ると、高架下に簡略化された街の地図があって、目当ての雑木林の場所はすぐにわかった。

途中見かけた百円ショップによって、なわとびを買う。

首を吊るからだ。

百円と消費税だけ払えば死ぬための道具を手に入れられるとは、なんて便利な世の中になったんだろう。
自殺するには快適な世界である。

やがてたどり着いた雑木林。

その入り口には児童公園があった。

何組もの母子が遊んでいる。

そんなわきあいあいとした場所にミチルが入っていけば、なにかしらの違和感をあたえるのは無理もないことだ。
スーツを着て、通勤バッグをタスキがけにしている。

そして、片手にはなわとび。

顔面は蒼白で、周囲に目もくれず、ずんずんと公園の奥にむかって歩いていく。

鈍感な人間がひと目見ただけでも、なにかふつうじゃない気配を感じるはずだ。

雑木林の中にはいっていくミチルの背中を、注視していた母親たちがたがいに目くばせをしはじめる。

あの人はいったい、林の奥へ入ってなにをしようとしてるのか。

悪い予感が場に満ちていく。

だがすぐに、ミチルの姿は木々の中にまぎれ見えなくなっていた。



人生にこれといって不満はない。

それどころかキラキラした希望に満ちあふれている。

短大を出てすぐに就職した今の会社も、ブラック企業などではなく、きちんとしたいい会社だった。

今年の夏、彼氏ができた。

背も高く、ユーモアもあってさらにイケメン。

非の打ちどころがない男性だった。

しあわせだ。

しあわせの絶頂だ。

なのになぜか。

死にたくなったのだ。

姿の見えない知らない誰かがささやいてくるからだ。

死ね死ね死ね、とささやいてくるからだ。

はじめはすごく怖かった。

だがやがて、マヒしてしまったかのように恐怖を感じなくなった。

死にいざなわれることへの抵抗がなくなっていった。

四六時中、死ね死ね、といわれ、やがて死ぬことが正しいことなのだと確信しはじめた。

朝、おなじ時間にホームに立ち、会社にむかい、仕事をこなし、アパートに帰り、彼と電話をする。

いつもと変わらない毎日。

なにも変わらない毎日。

これといった不幸もない。

悲しみもない。

それなのに。

死にたい。

死にたいのに、ボロボロと涙がこぼれた。

もうすぐ死ねるのに、泣きながら、雑木林をさまよった。

木の根や落ち葉で足をとられ、なんどか転びそうになった。

そうして奥へ奥へ進んでいくと、急に開けた場所があった。

落ち葉の堆積するその場所の中央には、一本だけおおきな木があった。

なんて名前の木なのかはわからない。

木肌はうねるような形状をしていて、強い生命力を感じさせる。

枝も太く、じょうぶそうだ。

あれだ。

あの木にしよう。

ミチルが決心した。

十メートルほど進み、木の前に立つ。

そしてまじまじと見あげる。

葉はほとんどが落ち、冬へむかう準備をしている。

それがとても物悲しかった。

命の終わりを感じてしまう。

すぐにでも死にたいけれど、最期のわかれはしておこうかとおもいたつ。

そして彼や両親に、なんてことばをつげようかとスマホをにぎりしめた。

だがおもいつかない。

なにもおもいつかない。

死ぬ理由なんてないからだ。

なにひとつないからだ。

それなのに死にたい。

今も、死ね死ね、と誰かがささやく。

ま、いっか。

とりあえず、このまま逝こう。

ミチルはなわとびを木の枝にくくりつけた。

人間は三十センチの高さがあれば首を吊って死ねるというのだから、すてきな生き物だ。

ミチルは泣きながら、笑った。

あはは、と笑った。

そして輪っかの中に首を入れる。


「ふぐっ……!」


声がもれた。

ラメの入ったビニール製のなわとび。

そんなかわいいアイテムが、今は人を殺す凶器に変貌している。

ミチルの目が充血し、視界がぼやけたとき、人の顔が見えた。

すこしさきの地面。

そこに。

顔が、落ちていた。

たくさんの枯葉であふれかえる地面。

そこに、男の顔が落ちているのだ。

なんだろう、あの顔?

なんであんなところに顔だけがあるんだろう?

正体不明のその顔。

落ち葉に埋もれたその顔。

そのふたつの目が、ミチルを見ている。

ふだんなら、きっとおそろしくてしかたなかったはずだ。

だが死を前にして、幽霊だろうがモノノケだろうがふしぎと怖くかんじない。

最後に見るものが不気味な顔だけの男なんて、いったいどういう人生だったのだろう。

息苦しさとともに、なんだか情けなくなってきた。

瞬間、視線の先にあった男の顔は、大量の落ち葉の中からガサリと音を立てて浮きあがってきた。

いや、浮きあがったのではなく、おきあがってきた。

なんだ、そういうことか。

男は落ち葉の中に寝ころがっていただけなのだ。

顔だけ、落ち葉の外にでていただけなのか。

ミチルは納得する。

すこしずつ死にながら、納得する。


でもなんで?


なんで落ち葉を布団がわりにしていたんだろう。


あったかいのかな。


たのしいのかな。


死にながら、疑問をもつ。

そんなミチルのもとに、その男がかけよる。

スーツを着た三十代前半くらいの男だった。

落ち葉をふみしめてどんどん近づいてくる。


いいの。


このままでいいの。


たすけないで。


たすけないでください。


そうおもいながらも、


「だッ! だずげでッ!」


と叫んだ。

手足をバタつかせ、


「だずげでぐだざいッ!」


男に泣きながら懇願した。

涙と鼻水を流しながら、力の限り懇願した。

ミチルのいいたいことが伝わっているのか、あるいははじめからそのつもりだったのか、


「だいじょうぶです」


みじかくいってうなずくと、スーツの胸ポケットから金属製のケースをとりだした。

葉巻を入れるシガーケースのようなものだ。

その中から銀色に光る、細い刃物を引きぬく。

それはメス。

メスだった。

なぜ?

なぜそんなものをもっているの? 

そう問いかけるまもなく、ちいさな刃はビニール製のなわとびを切断した。

きつくしまっていた気道が解放され、


「げほぅ」


と、ミチルのノドからおかしな音がもれた。

前のめりにたおれるミチル。

その体をスーツの男が抱きとめた。

そしてまた、


「もう、だいじょうぶ」


といった。

しずかな声だった。

すごく安心できた。

同時に、耳鳴りが消えていた。

ミチルはなにかから解放されたような気がして、


「死にたくないッ……! わたしッ、死にたくないんですッ!」


男にしがみつくようにしていった。

必死にすがり、ぼろぼろと泣きながらいった。

男はうなずきながら、ミチルの背中に手を置く。

ポンポンと、子供をなだめるようになんども置く。

すこしずつ体のこわばりが消えていくミチル。

そんなミチルを地面にゆっくりと座らせた男は、メスをケースにもどした。

男のスーツにはまだ数枚の落ち葉がくっついており、ところどころ、土でよごれている。

だが、自分の身なりより、すぐにミチルの健康状態をチェックしてはじめた。


「うん。意識障害もないし、手足のしびれもなさそうだ。声帯も問題なさそうですね。とりあえずは安心です」


そういわれてホッとした。


「ではこのまま、いっしょに病院に行きましょう」


まっすぐな視線でいわれた。


「びょ、病院ですか……?」


冷静さをとりもどしたミチルは、そのことばにうなずけなかった。

自死をしようとした自分がはずかしかったからだ。


「ここでできるのは、とりあえずの確認だけです。もしも血管や脳などにダメージがあったら大変ですからね」


男はそういいながら、メスがはいっていたケースから、こんどは一本の木の棒をとりだした。

新品のえんぴつくらいの長さがあった。


「さ、これを手でにぎってみてください」


男がそっと手渡す。

まっ白でいい匂いがする。

ミチルは受けとり、かるくにぎってみる。


「あ」


おもわず声をあげた。

純白だった木の棒が、すぐにドス黒く変色していったからだ。


「やはり」


男はうなずく。


「な、なんですか、これ……?」


痛むノドでミチルがたずねると、


「単刀直入にいいますね」


男は切れ長の目をこちらにむけ、


「あなた、呪われています」


といいきった。

うろたえるミチルに、


「心あたり、ありますね?」


さらに聞いてきた。

ミチルは反射的にうなずく。

ある。

でも、誰も信じてくれなかった。

家族も友人も、気のせいだと笑った。

病院で診察を受けても、身体に異常はなく、精神的なものだといわれた。

最初は真剣に話を聞いてくれていた彼氏も、だんだんめんどうくさそうな表情で、相づちをうつだけになった。

耳鳴りの話をすると、あからさまにため息をついて、もう聞きたくない、とアピールするのだ。

そのせいか、なんだか会話がぎくしゃくし、ミチルも相談するのをやめた。

やがておたがいに距離ができはじめ、彼からはあまり連絡がこなくなった。

それでミチルは自分ひとりでかかえこむようになっていた。

そうしてだんだんうちひしがれ、死へのいざないを受け入れはじめたのだ。

弱気になって、心が負けはじめたのだ。

たった十日で生きていたくなくなった。

あの囁きは、まるで洗脳のようだった。

そして今日。

今にいたる。

やっぱり。

やっぱり病気じゃなかったんだ。

よかった。

すこしだけ安心した。

だが、もっと別な恐怖がわきあがってくる。

どうして自分が呪われているのか、ということだ。

人にうらまれるようなことなんて、なにひとつ心あたりがない。

病気でないなら、いったいどうやって対処すればいいのか。

そんな困惑をかかえ、


「あ、あの、わたし、どうしたらいいんでしょう? 呪いなんて、どうしたら――」


そこまでいうとことばにつまり、涙をこらえた。

すると男はしずかな声で、


「これからすこし、お時間ありますか?」


たずねながら、一枚の名刺を渡してきた。

そこには、


『黄天堂大学病院 医師 円了真悟』

とあった。






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