結界病棟  第4話  『クマ』



検査結果はすべて良好で、どこにも異常はなかった。


「後遺症などもあらわれないでしょう」


円了がにこやかにうなずく。

お墨つきをもらい、とりあえずミチルは安心した。

すこしでも遅れれば、命を落としていたかもしれない。

仮にたすかったとしても、後遺症をかかえてしまったかもしれない。

そうおもうと、あの場に円了がいてほんとうによかった。

ミチルは涙ぐみ、


「先生のおかげです。ありがとうございました……」


と礼をいった。


「いいんですよ。人の命を救うのが、医師のつとめですから」


そういってほほえむ。

そのとき、


「でも……どうして先生はあの場所にいたんですか? しかも、枯葉の中に埋もれて」


ミチルが疑問を口にした。

すると円了のうしろに立っていた女性看護師が、


「先生、また行かれてたんですか? このあいだ警察のごやっかいになったばかりじゃないですか」


とクスクス笑った。

ネームプレートには『峰岸』と記されている。


「いや。それはなんていうか」


円了は照れくさそうに顔を赤らめて、


「あ、あれはですね、森林浴をしてるんですよ」


といった。


「森林浴?」


「ええ。森の中にいるとフィトンチッドなんかの影響でリラックス効果が得られまして、それに、落ち葉の布団はあったかいんですよ」


早口で説明する。


「と、とにかく、ストレス解消にとてもいいんです」


そういうことらしい。


「それにあの場所は、この病院から近いですし……」


だんだんいいわけをするような口調になってきたので、


「よかった」


とミチルは話を区切った。


「え」


「あの場所に先生がいなければ、わたし、今ごろ……」


そういって下をむく。


「ほんとうに感謝しかありません」


心の底からそうおもう。

円了はしんみりした空気が苦手なのか、コホン、とセキばらいして、


「それじゃあ、本題にはいりましょうか」


といった。


「え」


ミチルが顔をあげる。


「あなたを追いつめた呪いについてはまだ解決してませんからね」


円了がそういうのと同時に、後方に立っていた峰岸という女性看護師の表情もかたくなったように見えた。

そうだった。

死ね死ね、というあの声はなんなのか、まだなにもわかっていないのだ。

覚悟を決めたミチルがうなずくと、


「では、ひとつずつ、聞きますね」


円了がいう。


「声がきこえはじめたのは十日前でしたね? そのころ、ふだんとちがうことがありませんでしたか……?」


「ふだんとちがうこと……」


オウム返しでいって、首をかしげる。


「たとえば、どこかへでかけたとか、いつもとちがう道で帰ったとか……」


そんなおぼえはない。


「なにか購入したとか、あるいはひろったとか……」


「あ」


円了がいった例の中で、おもいあたることがあり、ハッとする。


「ひろった……、というか……置いてあったんです……」


「置いてあった? なにがです?」


「ぬいぐるみ」


「え?」


「かわいいクマのぬいぐるみが、ベランダに置いてあったんです」


ミチルはいいながら、ヒザの上にのせていた通勤カバンのチャックを開ける。

そして右手をつっこんで、


「これです」


と、クマのぬいぐるみを取りだした。


「あッ!」


円了と峰岸が同時に声をあげる。

ふつう、通勤カバンの中にぬいぐるみなんて入れない。

しかもそのままでかけてくるなんて、それだけで異常さをうかがえる。


「そのぬいぐるみ、ちょっと見せてもらえますか?」


円了がいうと、ミチルはすなおに手渡した。


「これが……置いてあったんですか?」


「はい。夜、マンションに帰宅して、カーテンをしめて着がえようとおもったら、ベランダに」


カバンの中からあらわれたぬいぐるみ。

それはどこにでも売っているような、ありきたりなものだった。

だが、体毛は脂っぽくベタベタとしている。

全体的に泥やほこりでよごれている。

さらにすこし、腐敗臭がする。

腹部には一度裂いたようなあとがあり、赤い糸で縫いつけられていた。

同時に目を引いたのは、クマの首もとだ。

腹を縫った赤い糸とおなじものが、なんどもなんどもグルグルと巻きつけられている。

クマを窒息死させようとしているかのようだ。


「ど、どうしてこんなものをカバンに入れてるんですか?」


当然の疑問を投げかける。

だが、


「え? え?」


と、ミチルは混乱し、


「だって、かわいそうでしょ? 部屋にひとりぼっちにしたら、かわいそうじゃないですか」


そういって、情緒不安定になったようにボロボロと泣きだした。

ちらりと目をやったカバンの口は半開きになっている。

そこから見える限り、中にはなにも入っていないのがわかった。

つまりミチルは、このぬいぐるみだけをもってでかけ、そしてあの雑木林で首をくくろうとしていたのだ。

これか。

このクマのぬいぐるみが、呪いを発動させるアイテムになっているのか。


「ちなみに……、マンションは何階建てですか?」


「ご、五階建てです」


泣きながらミチルが答える。


「ミチルさんの部屋は何階にあります?」


つづけてたずねられ、


「ご、五階……」


すぐに返答した。


「このぬいぐるみをベランダに置いたのが誰か、こころあたりは?」


ミチルは首をふった。


「最近、誰かとケンカしたとか? 過去に、ひどいトラブルになった人とかは?」


おもいあたらず、また首をふった。

そして、


「ねぇ先生。わたし、なんでこんなに悲しいんですか? ぜんぜん泣きたくないのに、なんでこんなに涙がでるんですか?」


円了に視線をむけた。


「それはね、このクマの意識だとおもいます」


理解できないことをいう。

そしてデスクの引き出しを開け、のどアメを取りだす。

スティック状に包装されたもので、ウルトラミント味と記されている。

円了は紙でくるまれたままのひとつぶをミチルに渡す。


「え」


一瞬とまどうが、


「とりあえず、口に入れてみてください。気分がかわりますから」


そういう円了も、ひとつぶ自分の口にほおりこんだ。

ミチルもそれにならって、すぐに口へはこぶ。

すると一気に強烈なメントールの刺激が口内をかけめぐり、両鼻の奥へつき刺さった。

両目もなんだかピリピリする。

ミチルは、


「んふっ」


おもわず声がもらした。


「すごいでしょ、このアメ」


そういってほほえみかけてくる円了も、目がうっすら赤くなっている。

きっとメントールの刺激で目がしみているのだ。


「でも、おかげで気もちがスッキリしませんか?」


そのとおりだ。

今の今まで悲しかった。

だが、のどアメのおかげで意識がハッキリし、自分を取りもどせているような気がする。

正気になったミチルに安心した円了は、峰岸に小声で指示し、透明なケースをもってこさせた。

そして、その中にクマのぬいぐるみを入れる。


「これでもうだいじょうぶ。このぬいぐるみがあなたの心に影響をあたえることはないでしょう」


「はぁ……」 


いっていることはあいかわらずよくわからないが、たしかに身も心も自由になった気がする。

そして、


「それでミチルさん、ベランダでこのクマをみつけて、どうしました……?」


円了はふたたび話題を、十日前の夜にもどした。


「はい。最初はすごく疑問でした。どうしてこんなものがあるのか。だってわたしの部屋は五階だし、となりの住人が仕切り板ごしに入れたのかなって」


円了はうなずく。


「屋上はあるんですか?」


「いえ、ありません」


ミチルが首をふる。

たしかに五階建ての最上階のベランダに物を入れるなら、室内からか、となりのベランダからしかないだろう。

当然、アンテナ工事などで業者がマンションの屋根にあたる部分にあがることはあるだろうが、わざわざぬいぐるみを投げ込むとはかんがえにくい。

おなじく、道路から五階にむかって、重量のないぬいぐるみを投げ込むことも容易ではないはずだ。



「……それで翌朝、出勤するときに管理室に届ければいいかなっておもって、ベランダにそのまま放置して――」


そこまでいって、ブルっとふるえた。

なにかおもいだしたのだろう。

ミチルの表情がこわばったのに気づき、


「どうしました?」


円了がたずねる。


「そ、そのあと、ノックされたんですよ、窓をコンコンって……。夜中に、ベランダから、窓をたたかれたんです」


両目を大きく開ける。


「でも五階だし、人がいるわけないし。風だろうって。風のはずだって。……でも。でもね、コンコン、コンコンってあいかわらず窓をたたくんですよ。それも、下のほう。窓の下のほう」


「ええ、それで?」


「怖かったけど、カーテン、すこし開けたんです。それで、すきまからのぞいたんです。そしたら」


「そしたら?」


「いたんですよクマが。クマのぬいぐるみが、窓のむこうに立っていて……。それでなぜか開けなきゃって。こわかったのに、窓を開けなきゃっておもって、わたし、開けたんです」


ガタガタと震えながら、よみがえる記憶をたどる。


「開けて? 開けたあとは?」


「わたし……抱きあげてました……。ごめんね、ごめんね、って……。なぜかずっとあやまっていて――。そのとき、聞こえたんです」


「聞こえた?」


「ミチル、みーつけた、って……ッ!」


「え? ミチルみつけた?」


「はい、たしかにいいました。そのクマが、わたし腕の中で……」


よみがえってきた奇怪な体験で、ミチルが涙をうかべる。

円了はなにかを思案しながら、なんどもうなずいている。


「それでわたし、ベッドでいっしょに寝たんです。なぜだかそうしなければいけない気がして……」


「なるほど……。で、死に誘う声が聞こえはじめたのはいつからです?」


「そのクマを部屋に入れた翌朝です……」


そこまで聞いて、円了は腕組みをした。

そしてヒザの上に置いた透明のケースをながめる。

ミチルも円了とおなじように視線を透明ケースにむけた。

中には、あのクマが入っている。

すぐに背筋が寒くなり、目をそらした。

その動きに気づいたのか、


「ああ、もうこのクマはあなたにおかしなことはできないから、だいじょうぶですよ」


といった。


「これね、どこにでも売ってるふつうのプラスチックのケースですけど、一応、中に御札が敷いてあるんです」


いいながら頭上にもちあげ、ケースの底を見せた。

たしかに一枚の細長い紙が敷いてある。

これが御札?

ミチルがまじまじと見つめる。


「ところで、このクマがどういうものかわかります?」


円了がたずねてくる。

だが、そういわれたって自分で購入したわけでもない。

ただよく見かけるタイプのぬいぐるみなので、


「テディベア……ですか?」


そう答えると、


「あ。ごめんなさい。質問のしかたが悪かったですね」


あはは、と円了が笑った。

そしていった。


「これね、……ひとりかくれんぼのクマですよ」


と。






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