結界病棟  第37話  『崩壊』



それはさっき、敏夫が円了との話に夢中になっているときだった。

兄の幸一がカズミに顔をよせ、


「……しっかりしろ」


ちいさな声で語りかけてきた。

とっさに兄を見る。

兄もこちらをじっと見ていた。

その目を見てカズミは安堵した。

容姿は粘土細工のようにすっかり変わってしまっている。

端正な面影はまったく残っていない。

だが、そのふたつの目は以前の兄の幸一そのものだった。


「いいか。合図をだしたらあの人をつれて逃げるんだぞ……ッ!」


幸一はしずかにそういった。

カズミはちいさくうなずいた。


それが。

それが今だ。


敏夫がカズミを追えないように、幸一がしっかりおさえこんでいる。


「いけッ! カズミッ、いくんだッ!」


カズミにむかって叫んでいる。

その声にカズミは走りだす。


むかう先。

そこには、車イスに乗せられた円了がいる。

敏夫は、兄妹でなにかをしめしあわせているのだと気づいた。

だが幸一にしがみつかれていて動けない。


「おいッ、ひとみッ! カズミだッ! カズミを止めろッ!」


妻に指示をだす。

返事もせず、ひとみが動きだす。

乗っ取った、二十代の体だ。

女子中学生のカズミとほぼ同等の俊敏さを見せ、あっというまに追いついた。

ブレザーをつかまれる。


「いやッ!」


その手をなんとかふりほどこうとしたとき、


「ちちち。にくにくにく」


と、ひとみがいった。

そのことばを聞いたとき、カズミははげしい頭痛に襲われた。

まるで脳が沸騰したかのようだった。

体がぐらつく。

力なく、円了にむかって手をのばす。

すがるような目で見ている。

そしてそのまま崩れ落ちた。

母のひとみはこれ以上動けないよう、カズミの延髄(えんずい)を両手で押さえつける。


「カ、カズミちゃんッ!」


なんとかしてやりたい、と円了はおもい呼びかけた。

だが、四肢が縛られ、動けない。

そのとき、

ばきんッ。

という、なにかが折れるような音が響いた。


「まったく……。どうしてこう育ってしまったんだか……」


敏夫は立ちあがりながら、あきれるようにいった。

その視線の先では、幸一がぐったりしている。

どうやら、首の骨が折れているようだ。

その目から、ひとすじの涙が流れている。


「お、お兄ちゃんッ!」


母に組みふせられたままカズミがさけぶ。


「ど、どうして……」


実の子にたいして、なぜここまで残酷になれるのか、と円了は目をうたがった。


「よくよくかんがえたら、原因はすべて子供たちにあった」


ため息まじりに敏夫がいった。


「親の心子知らずとはよくいったもんだな」


「ほんとうにそのとおりね」


カズミを見おろしたまま、ひとみが同意する。


「だがね、今はわたしも妻も、こんなに若い体を手に入れている。つまりさ、それはまた、あたらしい命を生むこともできるということだ。な? そうだろう? おまえ」


「あーら、いやだ。子供たちが聞いてますよぉ」


首が折れ、瀕死の状態である長男と、絶望している娘の前でいやらしい笑みをうかべた。


「ふ、ふたりとも、なにいってるのッ? どうかしてるッ! ぜったい、どうかしてるよッ!」


カズミが涙声で抗議する。


「どうかしている……だと?」


敏夫がカズミにむかって歩いてくる。


「父さんと母さんをだまして男を作ったあげく、子供まで生んだおまえに、そんなことをいう資格があるのか?」


円了に家族の過去を見せたとき、カズミの記憶もすべて見えた。

それはつまり、カズミが隠したかったことも両親と共有されてしまったことでもある。

灰色の、特殊な空間のせいだろう。


「転魂する先として、おまえの娘の体をもらってもいいんだぞ……?」


不気味な笑顔をうかべながら、怖いことをいう。


「あらぁ、いいわねぇ。じゃあ、わたしがもらうわぁ~」


ひとみがうれしそうに笑った。


「そ、そんな……!」


カズミの顔が引きつった。


「やめてッ! あの子にだけは手をださないでッ!」


懇願するが、


「ん~。でもさぁ、あなたの子ってことは、わたしの孫じゃない? そしたらきっと、転魂しても、しっくりくるとおもうんだよね」


あきらめないようだ。


「お願いッ、母さんッ! お願いだからッ!」


カズミが泣きだす。

だが両親は、


「あははは」
「あははは」


と笑っているばかりで、とりあってもくれない。

そのとき、


『あの子はダメだ』


と聞こえた。

空間全体に響いた。

カズミにも、円了にも、敏夫とひとみにも同時に聞こえた。

幸一の声だとすぐにわかった。

それで全員が、いっせいに幸一を見る。

だが、あいかわらずぐったりとしていて、意識はない。


ではあの声は?

幸一の声ではないならいったい誰の声だ?

皆、おもいあたらない。

すると、


『あの子はぜったいに、ダメなんだッ!』


また空間にひびいた。

その声に力強い意志を感じた。

同時に、

ばきゃッ。

と音が鳴り、敏夫の体がななめになった。

敏夫が自分の足もとを見ると、灰色の地面に亀裂が入っている。

その裂け目に、左足がはさまっていた。


「な、なんだ、これは?」


あせって引きぬこうとした。

だが、

ばきゃきゃッ。

と、あらたな亀裂が入り、今度は右足がはまった。

さらにその裂け目がひろがりつづけ、敏夫の腰まで落ちた。


「くッ、くそッ!」


両手をついて脱出をこころみるが、おもうように体があがらない。


「あ、あなたッ!」


そのようすを見ていたひとみがかけより、敏夫に手を貸そうとする。

だが、あらたに亀裂が入り、ひとみの体もはまってしまった。

ふたりして動きがとれなくなった。


「カ、カズミ、たすけてッ!」


ぐったりしているカズミに、ひとみが手をのばす。

いったいどの口がたすけをもとめているのか、とカズミはおもった。

これだけ脅したあげく、たすけてくれとは、どういう了見なんだろう。

だが、一応は親である。

苦しんでいるなら、たすけないわけにはいかない。

カズミは力をふりしぼって立ちあがろうとする。

そのとき、


『いけッ! もういくんだ、カズミッ!』


という声がひびいた。

だがやはり、兄は倒れたままピクリとも動かない。

しかし、


『カズミッ! 先生を連れて、逃げるんだッ!』


ふたたび語りかけてくる。


「お兄ちゃんッ? お兄ちゃんなのッ?」


倒れたままの幸一に声をかける。


『そうだ。オレの体はもう動かない。もう、意識だけしかない。おまえはこのまま先生と立ち去れ。あの子のためにも、ここを立ち去るんだッ!』


館内放送のように、灰色の空間すべてにひびく。


「で、でも、お兄ちゃんは?」


『オレはこのまま父さんと母さんをつれていく。おまえは……、おまえだけは、この汚れた血を忘れて生きろッ! あの子と、自由に生きるんだッ!』


ばきゃばきゃ、とすさまじい音をあげ、無数の亀裂が走りはじめる。

地面にも。

空にも。

灰色の空間すべてに亀裂が入る。


『ここはもう長くはもたない! はやくいけッ! いくんだッ! おまえは! おまえだけは! 自由に生きるんだッ!』


カズミは泣きながらうなずいた。

そして円了の乗る車イスにかけよってグリップをつかむと、


「いこう、先生ッ!」


といって走り出す。


「おまえぇぇぇぇッ! 幸一ぃぃぃぃぃッ! なにをしたッ! なにをしたんだッ!」


敏夫は幸一の体に叫ぶ。

体はもう、裂け目にはまって身動きひとつとれない。

ひとみはすでに下アゴまで亀裂にはさまり、はいでることをあきらめている。


『父さん、わすれたの? ここはオレの世界だよ。オレの作ったインナースペースだよ』


「な……ッ!」


『だからここに、ふたりを閉じこめるッ! この空間にふたりの魂を閉じこめるッ! それがオレにできる、唯一の罪ほろぼしだからッ!』


その強い意志に対して両親が怒りをあらわにし、罵詈雑言をぶつけてくるが、もうゆるがない。

やがて、幸一と両親の体は、無数の亀裂に飲みこまれていった。


母のおかしな呪文のせいで、まだ頭がガンガンする。

体もフラフラする。

気をぬくと意識も消えてしまいそうだ。

だが、


『走れ、走れ!』


兄が声をかけてくれる。

そのおかげでなんとか気絶しないですんでいる。


『走れ、走れ!』


そういってくれることで、背後から聞こえるすさまじい亀裂音に恐怖を感じずにすんでいる。

両親からの怒声と怨みごとがかき消える。


ありがとう。

ありがとう、お兄ちゃん。

でもごめんね。

なにもしてあげられなくて、ごめんね。


車イスを押しながら、なんどもなんども心の中でわびる。


『いいんだ。もういいんだよ』


兄のやさしい声が聞こえた。


『あの子としあわせになってくれ。すべて忘れて、どうか、どうかしあわ――』


そこまでいったのと同時に、すぐうしろでガラガラと、すさまじい破壊音がひびいた。

そして。

なにも聞こえなくなった。

兄の声も。

両親の罵声も。

なにも聞こえなくなった。


カズミはおそるおそるふりむく。

なにもなかった。

そこには、真っ暗な世界があった。

家族は誰もいなかった。

ただ自分と、車イスにのった円了がいるだけだった。


「あ。ああああ……」


目を見開き、わなわなと震えた。


そして全身の力がぬけ、フッと、意識が消えた。






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