結界病棟  第38話  『帰還』



ぐらぐらと、はげしく体をゆさぶられている。

なんどもなんどもゆさぶられている。

同時に、


「――先生ッ! 先生ッ! しっかりしてくださいッ!」


と大声で呼びかけられているのにも気づいた。

円了がぼんやりしたまま目を開けると、見知った顔がこちらをのぞきこんでいる。


「じ、事務局長……?」


つぶやくように問いかける。


「だ、だいじょうぶですか?」


そうたずねられながら、ここはどこだろうと周囲を見まわす。


「ここは廃墟の、地下室の中です」


事務局長がゆっくり、はっきりいった。


「は、廃墟……?」


おぼつかない口調で聞きかえす。

ゆっくり起きあがろうとする円了の背中をささえながら、


「そうです。茨城の、廃墟です」


肯定した。


どうしてここに?

いつのまに?

たしか、病院の駐車場でカズミちゃんの両親に出会って――。

そこまで記憶がよみがえり、


「――あッ! カ、カズミさんはッ? 峰岸一美さんはどうしましたッ?」


拉致された患者のことをおもいだす。


「だいじょうぶです。もう救急搬送されました」


そういわれ、安心した。


「それから、あのふたりも」


「あのふたり……?」


「ええ。ほら、行方不明になっていた田所ノボルの友人たちですよ。ふたりとも、ここにたおれてました」


「ああ……そうでしたか」


トモアキとアヤカのことか。

彼らは敏夫夫婦の霊から開放されたのだろうか。

そのことが気がかりだった。


「先生にも救急車を呼んでありますから、外にでましょう」


事務局長に肩をかり、体を押してもらって、なんとか地下室からはいでることができた。

円了は一階の床に座り込み、事務局長が階段をあがってくるのを待った。

そのとき、


「――あれッ。うわッ! おおぅ!」


あわてる声につづき、ガラガラと物音が聞こえた。


「ど、どうしました、事務局長?」


心配になって地下をのぞきこむと、


「いでででで」


腰をおさえて、うめいている事務局長が見えた。


「いやいや。急に立ちくらみして、尻もちついちゃいました」


よろよろと階段をあがってくる。


「先生たちがいなくなって、気が気じゃなくて。それでここまでドキドキしてきたんで、血圧あがっちゃったかもしれないです。いやはやめんぼくない」


照れ笑いをした。


「じゃあ局長もいっしょに診察受けましょう」


円了もほほえみながら提案し、


「でもほんとうに、みつけてくださってありがとうございました」


あらためて礼をいった。


「いえいえ。でもね、駐車場に先生の車が置きっぱなしでしたから、ここにいるのか半信半疑ではあったんですけどね」


あのとき、仁志潟夫婦に出会い、意識をうしなった。

おそらくそのあとでカズミ共々拉致されたのだろう。

あれからどれくらい時間が経ったのか。

灰色の空間にいたのは、とても長いもののように感じた。

そこでは仁志潟家の事情について、いろいろと知ることができた。

その膨大な記憶が流れ込んできたせいで、時間の間隔にズレや乱れがでたのかもしれない。

あるいは、幸一のインナースペースという特殊な場所だったから、そもそも時間の流れというものがなかったのかもしれない。


まるで夢でも見ていたかのようだ。

いや、夢と同等のものだった。

魂たちの見た夢――。

そうかんがえれば、納得できるし、また、するしかなかった。

そうこうしているうちに、救急隊員がストレッチャーをもってやってきてくれた。

そして円了とともに、事務局長も搬送されていった。



円了、峰岸一美、トモアキ、アヤカ、そして事務局長の五人全員が、茨城の廃墟から御茶ノ水の黄天堂大学病院まで搬送されていった。

検査の結果、峰岸一美には外傷もなく、とくに異常はなかった。

トモアキとアヤカにも、極度の疲労はあるものの、異常はなかった。

憑依されているようすもなく、仁志潟夫婦の魂は抜けたのだと診断された。



もとの病室にもどり、しずかに眠っている母のベッドの横で、娘の結衣はイスに腰かけていた。

手をにぎり、さすり、ほほにあて、


「お母さん……。お母さん……」


ちいさな声で呼びかける。

返事はない。

意識はもどっていないままだ。


でもいい。

それでもいい。

無事に帰ってきてくれたことだけでうれしいからだ。

生きていてくれただけでうれしいからだ。

そのとき、部屋の壁にかかったインターホンが鳴った。


誰だろう。

ナースセンターからかな。

おもいあたらず、受話器をとり耳にあてる。

すると、ザザザ、というノイズにまざって、


「あ……ぶな……」


と聞こえた。


「はい? なんですか? よく聞こえなくて」


もう一度いってほしいと結衣が要求すると、


「円……せん……あぶな……」


といった。

結衣は首をかしげながら、ことばのピースを組みあわせる。 

そして、


円了先生があぶない、

という答えをみちびきだす。


「もしもしッ? 円了先生がどうしたんですかッ?」


確認するように聞きなおす。


「はや……結衣……、はや……く……」


そこでわかった。

母だ。

母の声だ。


「お母さんッ? お母さんなのッ? そうでしょッ? そうなんでしょッ?」


ベッドの母に視線を向け、問いかける。

だが返事はなく、受話器からは、ツーツーという無通話状態の音が聞こえるだけだった。



円了と事務局長はおなじ部屋で点滴を受けていた。


「それにしても安心しました。これでひと段落ですね」


天井を見つめながら、円了が語りかける。

となりのベッドで横になっている事務局長は眠ってしまったのか、返事はない。

そのかわり、仕切りカーテンのむこうから、ぐぅぐぅといびきのようなものが聞こえる。


「疲れた……。今日はほんとうに疲れました……」


今度はひとりごちるようにいった。

時間はすでに日をまたぎ、あけがたに近い。

円了も目を閉じた。

体のすみずみまで、重たく感じる。

このまま眠ってしまいそうだ。

そうおもっていると、ぐぅぐぅ、と事務局長のいびきが大きくなってきた。

その緊張感のなさに、おもわず笑いたくなった。


だが。

瞬間。

ゾッとした。

全身に、ぞわりと鳥肌がたった。


なんだ?

なんだ、このおぞけは?

イヤな予感がしたとき、仕切りカーテンのすぐむこうに人影が見えた。


「じ、事務局長……?」


おもわず声をかける。

するとゆっくりカーテンを開け、返事もせずに事務局長がはいってきた。


だがおかしい。

その目つきがおかしい。

白目をむき、滂沱(ぼうだ)の涙をながしている。

正気じゃない。

すぐにわかった。

さらには、


「ぐぅぅ。ぐぅぅぅぅ」


と、立ったままいびきをかいている。

夢遊病者のようだ。

ゆらゆらと歩き、円了のベッドの脇に立つと、いびきの音が変わる。


「ぐぅぅぅぅぞぉぉぉ。ぐぞぉぉぉぉ」


まるで怨嗟(えんさ)をうったえるような音だった。


「ちょ、ちょっと局長、どうしました? 起きてくださいよ」


あまりの威圧感にじっとしていられなくなり、体を起こそうとした。

そのとき、いきなり事務局長が馬乗りになってきた。

両手で円了の首をしめてくる。

ぐいぐいと渾身の力をこめている。

その手をつかみ、あらがう。

だが全体重でのしかかられ、逃れることができない。


「やッ……、やめてくださいッ……!」


苦しみながらうったえるが、声帯をおされ、うまくことばにならない。

一向に事務局長は正気にならない。

まなこからこぼれる涙が、円了の顔にボタボタと落ちてくる。

それどころか、歯をむきだし、


「ぐぞうッ! ぐぞうッ! おまえざえいなげれば……ッ!」


敵意をあらわにしている。


ち、ちがうッ!

ちがうぞッ!

これは事務局長じゃないッ!

誰かが憑依してるんだッ!

仁志潟親子の魂はあの空間に閉じこめられたはずだ。

なら。

だとしたら。

これは。


甘沖。

転魂法を実践しようとした、甘沖だ。

いったいいつ事務局長は取り憑かれたのだろう。

可能性が高いのはあの廃墟だ。

地下室からあがるときに転倒したのは、めまいなどではなく、事務局長の中に甘沖の魂が入ったからかもしれない。

だがおもいあたっても、現状をどうすることもできない。

ナースコールのスイッチを押したいが、そのためには事務局長の手を一度離さなければならない。

しかしそうすれば、殺意をもった手が一気にノドに食いこんでくるだろう。

気道をつぶし、首の骨が折れるかもしれない。

円了の顔面は真っ赤になり、こめかみには今にも破裂しそうな太い血管がういている。


どうするッ?

どうしたらいいッ?

逡巡しているそのときだった。

病室のドアが乱暴に開き、


「――せッ、先生ッ!」


声がひびいた。






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