結界病棟  第39話  『終焉』



室内に聞こえた声。

それが峰岸結衣のものだとすぐにわかった。

しかし円了は首をしめられていて返事ができない。

だが、すぐに結衣が仕切りカーテンの向こうから顔をだし、この現状を理解したようだった。

結衣のうしろからは、三人の男性看護師も飛びこんでくる。

そのうちの誰かが、 


「引き離せッ!」


といい、三人同時に事務局長に飛びつく。

四人はそのまま、雪崩のようにベッドの下に落ちた。

おかげで円了の首をしめる手がはずれ、呼吸ができるようになった。

身をよじり、うつぶせになりながらゲホゲホとセキこむ。

床では男性看護師たちが全力で事務局長をおさえこむ。

だが、事務局長は奇声を発しながら、体力の限界などないように暴れている。

そのすきに結衣がかけより、


「先生ッ、これッ!」


往診カバンを見せてきた。

円了はその中に手を入れて注射器とバイアル瓶をとりだした。


バイアル瓶というのは、中にワクチンなどの薬液などいれておく瓶の名称だ。

上ぶたがゴム製であるから、直接注射針をさしこみ、未開封のまま薬液を吸いだすことができる。

今、円了がもっているバイアル瓶には透明の液体がはいっている。

だが、ワクチンなどではない。

とある神社の本殿で祝詞を受けた生理食塩水である。

いわゆる、聖水だ。

その聖水を注射器の針で吸引し、暴れる事務局長の太ももに突き刺す。

するとすぐに動きが止まり、ぶるぶる震えだした。

そして、


「うううう~んんん……」


と、うなりながら、あおむけにたおれて虚脱した。

もう看護師たちがおさえつける必要はないだろう。


「貴様ぁッ! 貴様だけはぁぁぁぁぁッ!」


口からあぶくを吐きだしながら、甘沖が怨みごとをいっている。

しかし聖水の回った事務局長の体は、もう自由にできない。

声帯をゆらすのがせいいっぱいなのだ。

だがそれも、すぐにむずかしくなる。


「ぐぞぅ……。ぐぞぅ……」


くやしそうにいう。

と同時に、事務局長の下アゴが大きく、パカリとひらいた。

その口の中から黒いモヤのようなものが立ちのぼり、天井にひろがる。

全員の視線が上をむく。

そして目を見開いた。


天井に充満した黒いモヤ。

それが巨大な男の顔に変化したからだ。

甘沖の顔だ。

大きなふたつの目が円了をにらみつけている。


「くやしい……ッ! くやしいぞ、円了ッ!」


地響きのような声だった。


「貴様だけはゆるさないッ! またとないチャンスを邪魔しやがってッ! あとすこしで軌道修復できたものをッ!」


巨大な顔が歯をむきだしにして吠える。


「われらの悲願をッ! われらの未来をッ! すべて壊しやがってッ!」


怨みごとをくりかえす。


「なにをいってるんですッ! そんな狂った計画、成功させるわけにはいきませんッ!」


円了が毅然という。


「あれがどれだけすばらしい計画だったかわからぬとはッ! 成功すれば人類の夢、不老不死が可能になるんだぞッ?」


「なにをいってるんですかッ? 他人の命を奪って完成する夢なんて、まちがった妄想ですッ」


「愚かな……ッ! 奪いあうことは生物の本来の姿だ。無数の精子が卵子を奪いあうところからはじまり、生まれたあとも大なり小なりそれはつづいている」


「たしかにそれを否定することはできません。しかし、だからといって人の命を犠牲にするなんて――」


「――くだらんッ! 崇高な計画のために生け贄となるのだッ! それはすばらしいことなのだぞッ? ただただムダに一生を消費してすごすより、偉人の人生の一部になるほうがどれほど有益か。かんがえればすぐにわかるだろうッ?」


「偉人? あなたがたが?」


「そうだッ」


「魂の清らかさも、気高さもない。ただ自分の欲求のまま神仏を利用するのはただの犯罪者ですッ!」


「なにをッ!」


いいかえす甘沖の輪郭がぼやけている。

ここは結界病棟だ。

肉体という入れ物をなくしたむきだしの魂は、その影響を強くうけてしまう。

すこしずつ、甘沖のいきおいは弱まっていく。


「この場所には聖なるエネルギーが満ちています。ですから正反対の邪悪な魂は、その存在を維持することはできません。あなたが今、すこしずつ消えていくのは魂がけがれている証拠なんです!」


円了が感情をぶつける。

と同時に、甘沖の憤怒の顔が霧散していく。


「ぬぐぐぅ~ッ! 貴様ッ! 貴様ぁぁぁぁぁぁッ! 地獄で待つッ! 待っているからなッ! 円了ぉぉぉぉぉぉッ!」


絶叫しながら、甘沖の魂が大気に溶けていった。

部屋中にたちこめていた重苦しい気配もなくなった。

円了も、結衣も、男性看護師たちも、ながいためいきをついてその場にへたりこんだ。


「あんな悪霊、はじめて見ましたよ……」


看護師のひとりがいうと、


「オレもだよ。鳥肌がまだおさまらない……」


腕をさすりながらべつなひとりがいった。

そのかたわらで、


「ぐぅぅぅ。ぐぐぅぅぅぅ」


と、事務局長がいびきをかいている。

のんきな寝顔だ。

あまりに緊張感のない姿を見て、おもわず円了が吹きだす。

つられて、結衣も男性看護師たちも笑いだした。


「これで終わったんでしょうか……?」


結衣がたずねる。


「ええ。もうだいじょうぶ。だいじょうぶですよ」


円了がうなずきながら、自分にもいい聞かせるように返事をした。

窓の外にはもう、あたらしい朝がきている。

夜の闇とともに、忌まわしい者たちは去ったのだ。


 
翌日――というより、その日の午後。

円了は今回のできごとを報告書にまとめていた。

予約の診察がなかったのはさいわいだった。

結衣には母親である一美のもとにいて、異変がないか見守るように指示してある。

……というのは建前で、一日いっしょにすごせるように円了がとりはからったのだ。

じっさい書類をまとめるだけなので、結衣のサポートは必要ない。

むしろひとりのほうが、仕事がはかどる。


完成した報告書を院長に提出すると、すぐに警察庁に連絡を入れたようだった。

宗教団体、蓮華転輪教が所持しているロッジの捜査するように進言したのだ。

かつてから疑惑のあった場所ではあるが、どこからかの圧力で操作ができずにいた。

しかし長い時間がすぎ、地元議員の世代交代、パワーバランスの刷新、権力者たちの引退や死によって、それが可能になったようだった。


日があけた、翌朝。

数十人の警察関係者が教団のロッジを捜索した。

周辺の土地も掘りおこされると、すぐに遺骨らしきものが発見された。

だが、大半が薬品によって溶かされており、正確な遺体数を確認するには時間がかかるそうだ。

しかしながら、行方不明になっている信者であることはまちがいないだろう、と判断された。

今後は大量殺人事件として展開していくかもしれない、と誰もがおもったときだった。

ロッジ内の金庫から、封書が見つかった。

そこには、


『我らの運命は、教団の未来と共にある』


と記されており、行方不明者たち直筆の署名と拇印がおされていた。

しかもその拇印は、血液によるものだとおもわれる。

つまり、血判状である。

それがきっかけで、これは大量殺人ではなく、教祖たちの自死に関連する集団自殺であるかもしれない、と捜査方向が定まらなくなってきた。

それに異を唱えるものは多かったが、教祖の仁志潟敏夫と、妻のひとみ、重要人物の甘沖がいないことで真相は闇の中だった。

たとえ円了が灰色の空間で見聞きしたことが真実だとしても、それを実証できなければ法律的に裁けない。

やはり、事件を知る唯一の生存者、峰岸一美の証言が必要なのは変わらないようだった。






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