室内に聞こえた声。
それが峰岸結衣のものだとすぐにわかった。
しかし円了は首をしめられていて返事ができない。
だが、すぐに結衣が仕切りカーテンの向こうから顔をだし、この現状を理解したようだった。
結衣のうしろからは、三人の男性看護師も飛びこんでくる。
そのうちの誰かが、
「引き離せッ!」
といい、三人同時に事務局長に飛びつく。
四人はそのまま、雪崩のようにベッドの下に落ちた。
おかげで円了の首をしめる手がはずれ、呼吸ができるようになった。
身をよじり、うつぶせになりながらゲホゲホとセキこむ。
床では男性看護師たちが全力で事務局長をおさえこむ。
だが、事務局長は奇声を発しながら、体力の限界などないように暴れている。
そのすきに結衣がかけより、
「先生ッ、これッ!」
往診カバンを見せてきた。
円了はその中に手を入れて注射器とバイアル瓶をとりだした。
バイアル瓶というのは、中にワクチンなどの薬液などいれておく瓶の名称だ。
上ぶたがゴム製であるから、直接注射針をさしこみ、未開封のまま薬液を吸いだすことができる。
今、円了がもっているバイアル瓶には透明の液体がはいっている。
だが、ワクチンなどではない。
とある神社の本殿で祝詞を受けた生理食塩水である。
いわゆる、聖水だ。
その聖水を注射器の針で吸引し、暴れる事務局長の太ももに突き刺す。
するとすぐに動きが止まり、ぶるぶる震えだした。
そして、
「うううう~んんん……」
と、うなりながら、あおむけにたおれて虚脱した。
もう看護師たちがおさえつける必要はないだろう。
「貴様ぁッ! 貴様だけはぁぁぁぁぁッ!」
口からあぶくを吐きだしながら、甘沖が怨みごとをいっている。
しかし聖水の回った事務局長の体は、もう自由にできない。
声帯をゆらすのがせいいっぱいなのだ。
だがそれも、すぐにむずかしくなる。
「ぐぞぅ……。ぐぞぅ……」
くやしそうにいう。
と同時に、事務局長の下アゴが大きく、パカリとひらいた。
その口の中から黒いモヤのようなものが立ちのぼり、天井にひろがる。
全員の視線が上をむく。
そして目を見開いた。
天井に充満した黒いモヤ。
それが巨大な男の顔に変化したからだ。
甘沖の顔だ。
大きなふたつの目が円了をにらみつけている。
「くやしい……ッ! くやしいぞ、円了ッ!」
地響きのような声だった。
「貴様だけはゆるさないッ! またとないチャンスを邪魔しやがってッ! あとすこしで軌道修復できたものをッ!」
巨大な顔が歯をむきだしにして吠える。
「われらの悲願をッ! われらの未来をッ! すべて壊しやがってッ!」
怨みごとをくりかえす。
「なにをいってるんですッ! そんな狂った計画、成功させるわけにはいきませんッ!」
円了が毅然という。
「あれがどれだけすばらしい計画だったかわからぬとはッ! 成功すれば人類の夢、不老不死が可能になるんだぞッ?」
「なにをいってるんですかッ? 他人の命を奪って完成する夢なんて、まちがった妄想ですッ」
「愚かな……ッ! 奪いあうことは生物の本来の姿だ。無数の精子が卵子を奪いあうところからはじまり、生まれたあとも大なり小なりそれはつづいている」
「たしかにそれを否定することはできません。しかし、だからといって人の命を犠牲にするなんて――」
「――くだらんッ! 崇高な計画のために生け贄となるのだッ! それはすばらしいことなのだぞッ? ただただムダに一生を消費してすごすより、偉人の人生の一部になるほうがどれほど有益か。かんがえればすぐにわかるだろうッ?」
「偉人? あなたがたが?」
「そうだッ」
「魂の清らかさも、気高さもない。ただ自分の欲求のまま神仏を利用するのはただの犯罪者ですッ!」
「なにをッ!」
いいかえす甘沖の輪郭がぼやけている。
ここは結界病棟だ。
肉体という入れ物をなくしたむきだしの魂は、その影響を強くうけてしまう。
すこしずつ、甘沖のいきおいは弱まっていく。
「この場所には聖なるエネルギーが満ちています。ですから正反対の邪悪な魂は、その存在を維持することはできません。あなたが今、すこしずつ消えていくのは魂がけがれている証拠なんです!」
円了が感情をぶつける。
と同時に、甘沖の憤怒の顔が霧散していく。
「ぬぐぐぅ~ッ! 貴様ッ! 貴様ぁぁぁぁぁぁッ! 地獄で待つッ! 待っているからなッ! 円了ぉぉぉぉぉぉッ!」
絶叫しながら、甘沖の魂が大気に溶けていった。
部屋中にたちこめていた重苦しい気配もなくなった。
円了も、結衣も、男性看護師たちも、ながいためいきをついてその場にへたりこんだ。
「あんな悪霊、はじめて見ましたよ……」
看護師のひとりがいうと、
「オレもだよ。鳥肌がまだおさまらない……」
腕をさすりながらべつなひとりがいった。
そのかたわらで、
「ぐぅぅぅ。ぐぐぅぅぅぅ」
と、事務局長がいびきをかいている。
のんきな寝顔だ。
あまりに緊張感のない姿を見て、おもわず円了が吹きだす。
つられて、結衣も男性看護師たちも笑いだした。
「これで終わったんでしょうか……?」
結衣がたずねる。
「ええ。もうだいじょうぶ。だいじょうぶですよ」
円了がうなずきながら、自分にもいい聞かせるように返事をした。
窓の外にはもう、あたらしい朝がきている。
夜の闇とともに、忌まわしい者たちは去ったのだ。
翌日――というより、その日の午後。
円了は今回のできごとを報告書にまとめていた。
予約の診察がなかったのはさいわいだった。
結衣には母親である一美のもとにいて、異変がないか見守るように指示してある。
……というのは建前で、一日いっしょにすごせるように円了がとりはからったのだ。
じっさい書類をまとめるだけなので、結衣のサポートは必要ない。
むしろひとりのほうが、仕事がはかどる。
完成した報告書を院長に提出すると、すぐに警察庁に連絡を入れたようだった。
宗教団体、蓮華転輪教が所持しているロッジの捜査するように進言したのだ。
かつてから疑惑のあった場所ではあるが、どこからかの圧力で操作ができずにいた。
しかし長い時間がすぎ、地元議員の世代交代、パワーバランスの刷新、権力者たちの引退や死によって、それが可能になったようだった。
日があけた、翌朝。
数十人の警察関係者が教団のロッジを捜索した。
周辺の土地も掘りおこされると、すぐに遺骨らしきものが発見された。
だが、大半が薬品によって溶かされており、正確な遺体数を確認するには時間がかかるそうだ。
しかしながら、行方不明になっている信者であることはまちがいないだろう、と判断された。
今後は大量殺人事件として展開していくかもしれない、と誰もがおもったときだった。
ロッジ内の金庫から、封書が見つかった。
そこには、
『我らの運命は、教団の未来と共にある』
と記されており、行方不明者たち直筆の署名と拇印がおされていた。
しかもその拇印は、血液によるものだとおもわれる。
つまり、血判状である。
それがきっかけで、これは大量殺人ではなく、教祖たちの自死に関連する集団自殺であるかもしれない、と捜査方向が定まらなくなってきた。
それに異を唱えるものは多かったが、教祖の仁志潟敏夫と、妻のひとみ、重要人物の甘沖がいないことで真相は闇の中だった。
たとえ円了が灰色の空間で見聞きしたことが真実だとしても、それを実証できなければ法律的に裁けない。
やはり、事件を知る唯一の生存者、峰岸一美の証言が必要なのは変わらないようだった。
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