あたりには夕闇が迫っている。
だがやはり、以前のような不気味さはなかった。
円了はカズミの背中をささえ、車の助手席に乗せた。
そして気分が落ちつくのを待つ。
ふしぎなもので、この場所でならふつうの人と変わらないコミュニケーションがとれる。
話すことはもちろん、ふれることもできる。
目の前のカズミが生霊であることを忘れてしまう。
円了はスマホを手にし、結衣に電話した。
「あ。先生、どうしました?」
森林浴にいっているはずの円了から電話がきて、意外なようだった。
「今、お母さんの病室にいますか?」
そうたずねると、
「ええ。今日はずっといっしょでした」
と返事をした。
「ちょうどよかった。これから病院にもどりますから、お母さんを車イスに乗せて待機していてもらえますか?」
「お母さんを……ですか?」
「ええ。くわしい話はもどってからします。病院近くになったらまた電話をしますから、そうしたら病棟の外にでてきてください。事務局長にも連絡して、協力してもらってくださいね」
そう指示すると、
「ど、どういうことですか?」
結衣がとまどう。
当然のことだ。
「もしかするとね、お母さんの意識がもどるかもしれないんです」
そう伝えると、結衣はすぐに承諾し、
「ほ、ほんとですかッ! で、では、連絡を待ってますッ!」
うれしそうに返事をした。
助手席のカズミも、その会話が気になったようで、詳細を聞いてきた。
そこで円了は、ひとつの仮説をいう。
「先日、この場所からコンビニにいったのをおぼえてますか? あれはこの敷地の外でしたよね? それでもカズミさんは人格も姿もしっかり維持した状態でしたでしょ?」
「え? うん、そうだった……! あんなこと、どうしてできたんだろう……?」
カズミが首をかしげる。
自分でもわからないようだ。
「あれとおなじような怪談を聞いたことがあるんです」
「おなじような怪談……?」
「深夜、病院の前で女性客をひろったタクシーが目的地の家まで届けると、財布をもってくる、といって家の中に入っていってしまう――」
そこまで聞いたカズミがうなずき、
「――それ、知ってるかも。……で、いつまでたってももどってこないから、インターホンを鳴らすと、その女性客のお葬式をやってた……、って話でしょ?」
話しのオチまでつづけた。
有名な怪談のひとつである。
怪談好きなら、誰でも一度は聞いたことがあるだろう。
カズミも昔、聞いたことがあるのでピンときたのだ。
ちなみにこの話の元ネタは、ある男性タレントの体験談だとされる。
車を走らせていると、道ばたにたたずむ女の子がいた。
こまっているようなので車に乗せて家まで送ると、後部座席にポシェットを忘れていったので届けてやることにした。
するとその家で葬儀の準備がおこなわれていて、さきほどの女の子の写真がかざってあったという。
この話が伝播し、有名なタクシー怪談に変化していったとおもわれる。
「その怪談と、先日ふたりでコンビニへいったことって、似ているとおもいませんか?」
そういわれればそうかもしれないが、返事にこまる。
「あれはね、きっとボクが、カズミさんの存在を疑わなかったからだとおもいます。すぐそばにいるカズミさんを魂や意識体ではなく、ひとりの人間として認識していたからだとおもいます」
「う、うん……」
まだよくわからず、カズミが空返事をする。
「今まで聞いてきたたくさんの心霊体験においても、霊の存在をふつうの生者としてかんちがいしていた人は、なんの疑いもなくコミュニケーションをとっていたんです。タクシー怪談の霊にしても、その姿を消すことなく家まで帰れたんですよ。だからね、今回はそのパターンを踏襲しようとおもうんです」
そこまで聞いて、円了がしようとしていることがわかってきた。
「ある、とおもえば、ある……。いる、とおもえば、いる……。そういう単純なことが、霊魂とコンタクトをとる方法の第一歩だとしたら、カズミさんがここにいる、とボクが疑わずにおもうことが、カズミさんの存在をたしかなものにするんです」
「なるほど」
「とにかく、ボクはカズミさんを認識している。ただそれだけでいいんです。それだけで、きっとあなたをここから連れだせる。そして、あなたの体にもどすことができるはずなんです」
力強い目でカズミを見る。
まっすぐな視線だった。
信頼できる。
信じられる。
安心できる。
これが娘の結衣が尊敬する医師、円了なのだ、と納得した。
「それじゃあ先生、おねがいします」
カズミがほほえみながらうなずく。
あとは円了にまかせよう。
すべてまかせよう。
「わかりました。それじゃあ、出発しますね」
円了もうなずいて、車を発進させた。
目的地である御茶ノ水の黄天堂大学病院にむけて車は走っていく。
その道中、円了はカズミとたくさん話をした。
カズミは通常の人間とおなじくそこにいて、笑ったり、うなずいたりしている。
やっぱり。
やっぱり仮説はあっていた。
うまくいく。
ぜったいにうまくいく。
円了は強くおもった。
車内では結衣の日頃の働きぶりを聞かせた。
カズミはうれしそうに聞いている。
かわってカズミが、上京して苦労したことや、おさないころの結衣の話をしはじめる。
ところどころで声をつまらせる。
言葉にできないおもいがこみあげてきたのだろう。
やがて車は都内にはいった。
だがそのとき、気づいてしまった。
カズミのつま先が薄くなっているのだ。
白いスニーカーが透けて、車の床が見えている。
それでも円了は知らないふりをして話をつづける。
感づかれないように作り笑顔をうかべ、どうでもいい世間話をする。
しかし、とくに話じょうずでもない円了は、すぐに話題につまる。
そうするとカズミがべらべらしゃべりだし、なんとか間をもたせた。
それでもすこしずつ、カズミの体が透けてくる。
足、腰、腹部まで、体が見えなくなってきた。
円了があせる。
あとすこし。
もうすこし。
前傾姿勢になってハンドルをにぎる円了に、
「ねぇ先生、さっきウソついたでしょ」
唐突にカズミがいった。
「ウソ?」
「うん。お兄ちゃんに会ったって……。あれ、ウソでしょ?」
「ど、どうしてですか?」
「だって先生、霊感ないんでしょ?」
笑顔で指摘する。
「いつだったか、結衣がベッドの横でいってたよ。先生には霊感がないって。それなのに霊や呪いに悩まされてる人をすくってるんだ、って」
ことばにつまる。
カズミのいうとおり、ウソをついていたからだ。
兄の幸一に会ってなどいない。
霊感もないのだから、交霊などができるわけでもない。
ただ、生きる希望をもってもらいたかった。
灰色の世界にいく――ということは、肉体にはもどらないということで、それはすなわち、死を意味する。
それを最善の答えとはおもってもらいたくなかった。
だから兄の幸一に会って、伝言をたくされたとウソをついたのだ。
「す、すみません……。でもね、悪気はなかったんです。カズミさんに生きていてもらいたかったから」
そこまでいうと、カズミは首を左右にふり、
「先生は気づいてなかったけどね、いたんですよ」
とほほえんだ。
「いた?」
「うん。先生がわたしに、結衣といっしょにしあわせに生きてほしい、っていったとき、先生のうしろにね、お兄ちゃん、いたんです」
「え……!」
「先生がわたしになにかいってくれるたび、お兄ちゃん、うしろでやさしくうなずいてました……。だからぜんぶ、お兄ちゃんの気もちそのままなんだって、そうわかって、わたし涙がでてきて。ああ……、しっかり生きなきゃ。いろいろ背負っても、生きていかなきゃ、っておもったんです」
「そ、そうだったんですか……」
ぜんぜん気づかなかった。
「だから先生、わたし、決心しました」
いいながらこちらを見たカズミが透けている。
ほほえみながら泣いている。
その顔が透けている。
「カ、カズミさんッ!」
ブレーキをかける。
このままじゃ完全に消えてしまう。
どうしよう。
どうしたらいい。
円了が困惑の表情をうかべる。
「ありがとう先生。わたし、生きてみます。もう一度、生きてみます」
カズミの笑顔がぼんやりかすむ。
陽炎のようにゆらめく。
「ま、待ってッ! 待って、カズミさんッ!」
円了がふれようと手をのばす。
だがそこに。
そこには。
ただからっぽの。
助手席があるだけだった。
あれから。
あれからカズミはまだ目をさまさない。
だがさいわい、体調が悪くなっているということもない。
それはつまり、カズミに生きる意志がある、ということだ。
灰色の世界にはいっていない証拠だ。
まだ時間はかかるかもしれないが、かならず回復するはず。
円了は確信している。
誓ってくれたから。
もう一度生きてみると、約束してくれたから。
「だいじょうぶ、お母さんはかならずもどってくるよ」
元気づけるように、結衣の肩に手を置く。
そのとき、病室のインターホンが鳴った。
またあの日のように、母からの電話がかかってきたのか……?
そうおもい、ふたりで顔を見あわせる。
あわい希望を抱いて、結衣はすぐに受話器をとる。
だが、
「……はい。……はい」
けわしい顔で返事をしはじめた。
円了は受話器を置いた結衣に、
「お母さんじゃないの……?」
とたずねる。
すると、
「はい。急患だそうです」
といった。
「急患?」
「殺人現場にいあわせた男性がひどい呪障に苦しんでいるようで、すぐに運ばれてくるそうです」
そう伝えられ、
「わかった」
円了がうなずいた。
その表情はもう、強い使命感にあふれていた。
〈了〉
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